その17 いつから大人?
上級生はいつも大人に見えた。
小学1年生の時は6年生が、大人というより大きく見えた。実際私は12歳で150センチはあったのだから、文字通り大きな6年生ではあったのだけど。(その後20ン年間で8センチほどしか伸びなかったので、今はごく普通です)
中学でも高校でも、3年生はとても大人に見えた。
高校受験の時に試験会場の手伝いをしていた先輩は、当時チョコレートのコマーシャルにでていた、田原俊彦と松田聖子のようなカップルで、大人の恋人同士に見えたものだが、自分が3年生になってみればなんてことはない、昨日と今日の間に、<進級>の文字が入っただけ。全く変わらない自分が、3年の教室に座っているのだった。
いつから「大人」になったのだろう。
「大人扱い」をされるようになったのは、やはり成人して社会に出てからだったろうけれど、電車賃は中学から大人料金だったし、見たことはないけれど成人映画は18才から見られたはず。
四十の大台に手が届く今、さすがに子供扱いされることはないけれど、中身はそう変わっていないようにおもう。まあ、それなりの成長は遂げているはずではあるけれど。
長男が幼稚園に入る前だから、3歳くらいの時だったと思う。家族で買い物に行ったとき、どこかでお茶でも飲もうよということになって、喫茶店に入ったことがある。
子連れで行くのはもっぱら、ファストフードかジュースバーなんかだったりするのだけれど、長男はおとなしいタイプの子供であったので、たまには行ってみようよと、コーヒーを一杯ずつサイフォンで淹れてくれる店に入ったのだ。
落ち着いた店内は、まさに大人の雰囲気。器にも凝っている。近くのテーブルの人が飲んでいたジュースも素敵なゴブレットに入っていた。
と・こ・ろ・が!
長男の席に届いたジュースはなんと、キティちゃんのコップに入ってきたのである。この時の、彼の傷ついた表情は、忘れられない。幼い子供にも期待とか、プライドとか、それなりにあるもので、この時の彼の表情はまさに「裏切られた」という感じであった。
子供だからという店側の配慮もあったのかもしれないし、高いグラスを割られてはという危惧だったのかもしれない。だが、キティちゃんのコップに入ったジュースは、中身は同じでも全くの別物になっていた。メニューに「おいしい」と謳われた、いいお値段のジュースを長男は半分も飲まずに残した。「子供扱い」に、憤慨したのだろうと思う。(3才は、立派に子供なんだけど)いまだに彼は、「あのお店には行きたくない」と言う。よほどショックだったのだろう。
辞書によると「扱い」には
「接尾語的な使い方で、それらしく処遇する」という意味があるらしい。「お客様扱い」「罪人扱い」などが用例として載っていた。
なんにせよ、差別・・・というほどではないにしても「区別」くらいはされている不快感がある。
子供もなるべく、同等に、と思う。対等に、とも思う。が、日常ではなかなか難しく、私たちの話しに入ってきて口を挟もうとする長男に、ついつい「子供は知らなくていいの!」と、口走ってしまう私。人知れず、傷ついてたりするんだろうな。まあ、社会とはそういうことも多々あるのだよということで、お茶を濁してみたりして。
中越地震の時、こちらもかなり揺れた。夫君は外出中で、私は子供らをお風呂に入れるべく、先に湯船に浸かっていた。湯船のお湯まで波打つ、初めて体験する揺れに大慌てで風呂場から飛び出し、
「テーブルの下にもぐりなさあい!」と叫ぶ私に、長男は落ち着いて
「お母さん、NHK をつけるよ」・・・。
少しずつ少しずつ、年を重ねるごとに、大人の部分が増えていって、子供の部分は減っていくものなのかも知れないな、と思う。今の自分の何%が大人なのかは、知るよしもないけど。
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